春の和菓子 大特集: 和菓子処 金沢



2008年04月13日

和菓子処 金沢

金沢は日本の和菓子処の一つ

京都や島根県の松江と並んで、金沢は全国的にも知られている和菓子どころです。
その三つの土地に共通しているのは、いずれも、古くから茶の湯の文化が発達していた場所だということです。

金沢は、藩祖前田利家から始まる歴代の藩主が茶の湯に大きな関心を持っていました。
利家や二代藩主の利長は千利休の直弟子であり、三代藩主の利常も江戸初期の大茶名人である小堀遠州や金森宗和、仙叟千宗室(せんそうせんのそうしつ)に学んでいました。
五代藩主の綱紀は、仙叟千宗室を茶道茶具奉行とし、藩を挙げて茶の湯を奨励していたほどです。
藩主全員が茶に興味があったのです。
このため、茶の湯に欠かせない菓子の需要が増え、技術が向上していきました。
では実際、金沢の菓子作りがいつから始まったのかということについては、さまざまな説があります。
最も古いものは、1590年(天正18年)、利家が入府した際に遡ります。
その頃は、城の周囲に菓子屋はありませんでした。
そこで、当時の御用菓子処だった堂後屋三郎衛門が、片町に1600坪の邸宅を拝領し、餅菓子店を始めたという説が、金沢和菓子の元祖と言われています。
また、利長の時代に、藩の御用菓子師だった樫田吉蔵が五色生菓子を考案し、1600年(慶長5年)、珠姫(天徳院)が金沢へお輿入れする際、五色生菓子を収めたのがルーツであるという説もあります。

さらに、1630年(寛永7年)頃、利常が越中井波から菓子師を呼び、香林坊で加賀落雁を作らせたのが始まりともされています。1625年(寛永2年)、尾張町で創業した森下屋八左衛門が利常の創意により、小堀遠州の書いた「長生殿」という文字を墨型の落雁にして創製したことが最初であるとも考えられています。
長生殿は現在でも作られており、金沢を代表する和菓子の一つです。
 
金沢の和菓子はそのどれもが、美しく、とても完成された感があります。
それは、作る和菓子職人はもちろん、それを食する人の和菓子を味わう力も高いものでなければならなかったのです。
 
加賀百万石の時代から、和菓子を愛した金沢。
その和菓子は洗練され、日本を代表する和菓子を生み出し続けるのです。

 

posted by けんしろう at 23:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金沢
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